こんにちは!
今回は日本で1番利用客数が多いと言われる「山手線の歴史」についてお話しようと思います!
山手線っていつから走っているの?
最初から環状線だったのかな?
こんな疑問にお答えしていきたいと思います!
- 山手線は1885(明治18)年3月1日に日本鉄道が開業したことが始まりだった
- 山手線は初めは環状線ではなく、1925(大正14)年11月に環状線となった
- 「丸い緑の山手線」は1963(昭和38)年に誕生した
- 山手線は東京市内(現在の23区に相当)西部の高台地域を指す「山手」の名称が由来となっている
鉄道会社に10年勤めた筆者が
鉄道博物館の「山手線展」で調査してきました!
日本が誇る山手線の歴史について詳しくなって、自慢しちゃいましょう!
それでは、よろしくお願いします!
山手線の歴史①昔は「山手線」じゃなかった!
山手線が開業したのは1885(明治18)年3月1日。当時の日本鉄道株式会社によって開業されました。開業当初は山手線ではなく、「品川線」として開業しました。ここから山手線の歴史は始まります。
※日本鉄道株式会社は日本初の民営鉄道会社で、現在のJR東日本の路線を多く建設・運営していたが、1906(明治39)年の鉄道国有法により国有化となった。
山手線は初めは「品川線」として開業していた!
開業当初は品川〜赤羽間を結ぶ、「品川線」としてスタートしました。すでに開業されていた上野〜前橋間(日本鉄道)と新橋〜横浜間(官設鉄道)の路線を結ぶことで、
- 北関東の繭・生糸・絹織物などを貿易港の横浜へ
- 建設資材を青森などの東北方面へ
輸送する目的があったそうです。開業当初の駅では品川線と主要な街道が交差する
- 板橋駅(中山道)
- 新宿駅(甲州街道・青梅街道)
- 渋谷駅(大山街道)
が開設されました。また少し遅れて同3月16日には目白駅、目黒駅が開業したそうです。品川線の開業当初は1日3往復しか旅客列車は走っておらず、お客さまも少なかったそうです。
今では信じられないですよね!
しかし後年には多くの鉄道路線が乗り入れる要衝となり、それに伴って
- お客さまの増加と沿線の発展
- 貨物輸送の充実
- 輸出品の輸送力向上による産業の発展
を促進していったそうです。
池袋駅の誕生と豊島線の開業!そして山手線へ…!
その後、日本鉄道は常磐線を開設(当時は隅田川線、土浦線、磐城線と呼ばれていた)し、その当時の起点であった「田端駅」と品川線を結ぶ新線を建設しました。これは常磐線沿線の炭鉱で産出する石炭を東京や京浜工業地帯に輸送する目的があったそうです。
品川線との合流駅として広大な用地の確保が可能な池袋に駅を新設し、そこから分岐させることとしました。これが「池袋駅」の誕生です。
この田端〜池袋間の区間は「豊島線」と呼ばれ、1903(明治36)年4月に開業されました。その建設途中で「大塚駅」「巣鴨駅」も開設されたようです。
そしてこの豊島線の開業前の1901(明治34)年8月に、日本鉄道は品川線・豊島線の名称を廃止して現在の「山手線」の名称が与えられました。ここで山手線が歴史上で誕生し、官設鉄道と合わせて新橋〜品川〜新宿〜池袋〜田端間が開業したことになり、現在の約3/4の区間が出来上がりました。
山手線は東京市内(現在の23区に相当)西部の高台地域を指す「山手」の名称が由来となって名付けられました。
山手線の歴史②丸い環状線の完成へ
前身である品川線から山手線誕生までをお話ししましたが、まだ丸い環状線は完成しておりません。ではどのように環状線が出来上がっていったのか、続きをお話しします!
日本鉄道から現在のJRの前身、国有鉄道へ!
1906(明治39)年3月に鉄道国有法が公布され、全国の主要な私鉄が国に買収されることとなり、日本鉄道も同11月に国有化されました。
その3年後の10月には国有鉄道線路名称が制定され、「山手線」の名称が引き継がれて、名実ともに国による一元的な運行が行われるようになりました。これが現在の「JR山手線」の前身になります。
同12月には烏森(現・新橋)駅まで市街の高架化工事が進み、烏森〜品川、品川〜赤羽、池袋〜田端、上野〜田端間が電化されました。それまでは蒸気機関車が走っており、ここで電車「山手線」が初めて登場します。
その後、高架化工事は進んでいき、1910(明治43)年には「有楽町駅」、1914(大正3)年には「東京駅」が開業し、東京駅まで電化区間となりました。
丸くなる前、昔は「の」の字運転だった!?
一方で中央線も高架化工事が進んでおり、御茶ノ水〜東京での工事完了を機に、中央線の中野〜東京間と山手線との間で直通運転が行われることとなりました。それにより
中野〜新宿〜東京〜品川〜新宿〜池袋〜上野
という「の」の字運転と呼ばれるルートを走っていたそうです。
今考えると不思議なルートですよね
品川線開業から40年!丸い環状線の完成!
「の」の字運転は一時的なもので、東京の北側の高架化工事が進み、1925(大正8)年11月に東京〜上野間の高架線が完成すると、山手線はいよいよ環状運転を開始しました。品川〜赤羽の品川線開業から実に40年の歳月が過ぎていました。
これは江戸以来の市街地に鉄道用地として高架化工事をすることが容易ではなく、長い時間を要することになったそうです。
大変な苦労があって丸い山手線は完成したんだね
またこれに伴って、赤羽〜池袋間は折り返し運転のみが行われるようになり、1972(昭和47)年に「赤羽線」として独立しましたが、埼京線の乗り入れまでは山手線の支線のような扱いとなっていたそうです。
山手線の歴史③環状線として東京の発展に大きく貢献していった!
環状線として誕生した山手線は元々の役割である貨物輸送を分離して、旅客列車専門として人の流れを作っていきます。ここからは近代のような首都圏の移動には欠かせない山手線がどのように出来上がっていったのか、お話ししていきます!
旅客列車の専門となる!
1916(大正5)年から1925(同14)年3月にかけて品川〜田端間の複々線化工事が完成し、客貨分離が図られます。これにより山手線は旅客列車の専門として、人の流れを作っていくことになります。
またこの貨物線は「山手貨物線」と通称され、現在のJR湘南新宿ラインが通るルートとなっています。
他にも
- 品川〜鶴見間の東海道貨物線の建設
- 大崎〜蛇窪間の大崎支線開通に伴う山手貨物線と東海道貨物線の直通
- 武蔵野線の開業
により、貨物の輸送強化が行われていきました。これにより、列車密度に余裕ができた山手貨物線は通勤需要の高まりに応じてJR湘南新宿ライン・埼京線として旅客輸送を担っていきました。
首都圏の発展に貢献!ターミナル化していく駅たち!
東京ではそれまでの中心であった銀座・日本橋・浅草から西側へと繁華街は移っていきます。これは東京の発展に伴い各私鉄が郊外に開業していきますが、いずれも山手線の駅を起点(終着点)としたためです。
理由としては当時の東京市に市内線を張り巡らせていた東京市(のちの東京都交通局)が自らのテリトリーに私鉄が乗り入れることに反対したため、私鉄各社はやむを得ず山手線駅を起点として郊外へ路線を建設したためとされています。
だから山手線の円の中には地下鉄以外の線がないんだね!
これに伴い新宿・渋谷・池袋などの駅は乗降者数が急増していき、百貨店などの商業施設が多く建設され、ターミナル駅として首都圏の発展に貢献していきます。
- 通勤・通学の拠点
- 新興の繁華街
- モダンな若者が集まる街
として、人々の新しいライフスタイルを作っていきました。
中でも新宿駅は品川線開業当初は1日の乗降客数がわずか30人という小規模な駅でしたが、1931(昭和6)年には全国で乗降客数1位の駅となり、現在でも不動の1位として君臨しています。
さらに1991(平成3)年には有楽町から東京都庁が移転するなど、都心部としての機能を有していくことになりました。
山手線の歴史④丸い緑の山手線の誕生!歴代車両の紹介と現代までの進化
丸い山手線は誕生したけど、緑はいつからなの?
答えは1963(昭和38)年に投入された103系から!
ここからは山手線の歴代車両と、現在までの車両の進化と合わせてご紹介したします。
初代ウグイス色!時代の先駆車103系
山手線といえば緑色、正しくは「ウグイス色」がイメージカラーですが、これは103系というタイプの電車からになります。ビル街でも映える色で選ばれたとの話も。
ここに「丸い緑の山手線」が完成します。
この103系は当初は8両編成で製造されましたが、混雑緩和のために1969(昭和44)年には10両化し、ホームの拡張と合わせて輸送力は25%アップしたそうです。
また翌年には国鉄で初めて冷房車が導入され、1981(昭和56)年にはATC運転が開始されるなど、時代のニーズに合わせて次々と改良されていきました。
初のステンレス&6扉車両!JRへと時代をまたぐ205系
1985(昭和60)年に新型車両として205系が投入されます。この車両はステンレスの構体にウグイス色の帯を纏うデザインとなり、国鉄からJRへと改革がされる中でJRの顔となる車両となりました。
またボルスタレス台車、回生ブレーキ付界磁添加励磁制御方式を採用するなどの新しい技術も導入されました。そしてさらに高まる通勤通学需要に応えるために1991(平成3)年12月に6扉車を本格導入し、11両11編成として現在と同じ両数になりました。
この6扉車の特徴は
- 通常片側4扉のところ、6扉にすることで激しい乗降をスムーズに
- ラッシュ時には座席を折りたたみ立ち席のみにすることで、より多くのお客さまが乗れるように
といった構造になっており、その当時最も乗降の多かった新宿駅南口への階段に位置する9号車を6扉車として組み込んだそうです。
次々と改良されていくバージョンアップ車両!JRとしてのE231系
2002(平成14)年4月に新型車両としてE231系が登場します。この「E」はJRとして民営化し、東日本の「East」の頭文字をとってE〜系と名付けられています。
E231系ではVVVF制御方式、列車情報管理装置(TIMS)搭載、車内広告ディスプレイ(VIS)の設置など、新しい技術が採用され、省エネレギー・省メンテナンスなどを目的に開発されました。また9号車のみであった6扉車を7・10号車の2両にして乗降をよりスムーズにしました。
※TIMS(Train Information Management System)とは車両の力行やブレーキ、空調などを一括管理するコンピュータシステムのこと。
※VIS(Visual Information System)とは運行情報や車内広告をディスプレイで発信する装置のこと。
さらに保安装置として2006(平成18)年には全線でD-ATCが使用開始になることで
- 乗り心地の向上
- 過密ダイヤの実現が可能となり、ラッシュ時には外回り25本を運行
- 1周の所要時間を最速59分に
させることが可能となりました。また2010(平成22)年には恵比寿駅にホームドアが設置され、車両側にはTASCが搭載されることにより、さらなる安全性の向上が図られました。
※TASC(Train Automatic Stop Control)とは、ホームドアの位置に精度良く停車させるための制御装置。これによりオーバーランを防げるようになりました。詳細はこちら
ホームドアの整備に伴い、6扉車は姿を消していくこととなります。これはホームドアの構造上、扉の間隔を狭めることができなかったためです。6扉車の活躍は約21年間でした。
現在の最新車両!新時代を作るE235系の登場!
2015(平成27)年に最新の新型車両「E235系」が登場します。E235系のコンセプトは「お客さま、社会とコミュニケーションする車両」で、2021年12月も走行している最新車両になります。
前面デザインは大きな1枚窓で開放感のあるデザインとし、客室は居住空間が広く感じられる開放的なデザインとなっています。従来の扉上に加えて窓上部、連結面上部にデジタルサイネージを配置して、1両あたり最多で36面の表示器を搭載し、さまざまな情報が提供できるようになりました。
またメンテナンスにおいてはTIMSを大きく改良したINTEROSを導入し、車両機器の状態を常に監視できるようになることで故障の予兆を把握して事前に対処できるようになることで、メンテナンスは新時代に変わりつつあります。
最新のニュースでは
- 消費電力を10%節電できる省エネ運転
- ワンマン運転化
- 自動運転化(ATO)
など、技術の進歩によりさらなる発展をみせる電車でもあります。
山手線の歴史⑤49年ぶりの新駅開業!高輪ゲートウェイ駅の誕生
1971(昭和46)年4月20日に開業した「西日暮里駅」以来、実に49年ぶりの新駅として、2020(令和2)年3月14日に「高輪ゲートウェイ駅」は開業しました。
開業の経緯は当時の最長区間であった品川~田町間にある田町車両センターでは寝台列車の廃止や上野東京ライン開業により東海道線を留置しなくなったことから敷地が余っていたこともあり、跡地を利用して駅を設置することで街づくりを行い
- 羽田空港とアクセスの良い泉岳寺駅
- リニアが開業する予定の品川駅
などと合わせて人の流れを「高輪」の地に作ることを目的に開業しました。しかし2021年現在では利用客数は山手線内では最少人数となっていて、2024年にむけて駅を中心とした街づくりを本格的に開業するとしています。
今後が楽しみですね!
まとめ:山手線の歴史は古く、これからも進化していく路線!今後もJRの顔に注目!
今回は山手線の歴史についてお話しましたが、いかがでしたでしょうか。
皆さんが思っているより古かったでしょうか?
現在の丸い緑の山手線が出来上がるまでの歴史、今後もますます進化していく「山手線」について、少しでも興味を持っていただけたら幸いです。
山手線の駅一覧と駅に関する雑学や山手線の一周時間についてもご紹介しておりますので、ぜひ合わせてご覧いただければと思います。
また電車の仕組みについてもご紹介しておりますので、ぜひ一緒に勉強していきましょう!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!